でも今は「それが自分を傷つけるなら距離をおいたほうがいい」
と言う結論に至った。
「合わないなら距離をおけばいい」
それは別に当たり前のように聞こえるよね。
でも、私はそういう考え方は
世界の分断がどんどん広まってしまう原因だと考えてた。
特に政治的なことであると、対立してしまいやすい。
相手がなぜそう考えるか、などを考える前に、
意見を否定してしまう。
そうなると、考え方が違う人と話しても意味がない。
バカにされ、傷つけられるだけだとなり、「対話」することがなくなる。
そして、どんどん溝が広がってしまう。
その溝がどんどん深くなった結果が2018年のフランスで広がった黄色のベスト運動だったり、アメリカでの黒人による暴動行動だと思う。
だから意見が違っても、耳を傾け、なぜそういう風に考えるように至ったかを聞いてあげなくてはいけない。
そこから改善すべきことを何かを見つけ改善していくように、
この世界はなってあげないといけないと思った。
ブレイディみかこさん著の「僕はイエローでホワイトでちょっとブルー」も読んで、本当に、相手のバックグラウンドを知り、そこから彼らの感情を理解するように努力することがこれから本当に重要だと思っていた。
そして、この考え方を友達との関係にも当てはめていた。
どうしても価値観も考え方も合わない友達がいて、
自分が物事をはっきりいう性格を否定された。
私はそれがショックだった。
傷つけるようなネガティブなことは言ってはいけないと怒られた。
私は友達には、素直に思ったことを真正面から言い合えるべきで、それで傷ついたなら、傷ついたとその場で言って欲しい、本当の友達はそういう仲であるべきだし、そうではなかったら私も友達でいられない。(でも、そう考えない人もいると思うし、それは否定しない)だから、この子と縁を切ろうと思ったことがあった。
しかし、その時に、価値観が合わないから、その人から離れるって、意見が合わない人の話は聞かないのと同じじゃん。こうやって分断を広げるんだと思った。
だから、もう少し私が理解してあげる努力をしようとなった。
だけど、そこから1年間。
その子の些細な行動や言動に私は何回も傷ついた。
同時に、きっと私も、無意識に彼女のことを傷つけていたと思う。
お互い傷つけあっていた。
ここで、「価値観が合わない友達と距離を置く」ことは、
「他人に共感しない」と同じなのか考えることになった。
色々な価値観や考え方を持っている人が、
世界だったり、日本という大きなコミュニティーの中で
傷付かずに受け入れられながら生活するために、
そのコミュニティーにいる人が共感力を持つことがとても大切だ。
しかし、ここでコミュニティの中の人と、友達は全く異なる。
コミュニティの中の人は、先生だったり、会社の上司、同僚、近所の人、お医者さん、スーパーの店員さん、などなど、社会で生きていくために行動した先で出会う人だ。
こういった人たちとは、「一定の距離」があるだろう。
しかし、友達は違う。
生きていくために絶対に必要なものではない。
だけど、精神的に支えてくれる存在。だから距離が圧倒的に近い。
友達は一緒にいることで落ち着けて、楽しくて、本気でぶつかることができる人。
だから、一緒にいて苦痛を感じるのであれば、友達とは言えない。
だから、苦痛を感じるから距離を取るということは、
友達の距離からコミュニティの中の人との距離になるということだ。
共感しないのとは違う。
一定の距離から、その子を理解し、受け入れてあげればいい。

もし、友達を辞めるって心の狭い判断だな、だけど友達続けるの辛いなと思い悩んでいる人にとって、ちょっとはためになればいいなと思う。